最後の医者は桜を見上げて君を想う 二宮敦人著
医師が死にゆく若い患者とどのように向き合うべきか、医療の本質をついた壮絶な物語
病院では「死」は日常に起こる。
病院は病気を癒やし、治す場所であるが、
病院外での死がほとんどなくなったこの時代、病院は、最後の時間を過ごす役割りを担っている。
しかし時代と共に、死を目撃しなくなった人たちは
「死」と向き合った経験がない。
考えたこともなければ、イメージもない。
人は必ず死ぬ、、、のに。
医者も血の通った人間であり、患者と共に死と向き合うことの大切さ、本当の医療・医師とは何かを教えてくれる、1冊でした。
今回は、この本が一般の人たちに書かれた小説であるため、医師(医療人)と患者(一般の人)のそれぞれの目線で、考えてみました。
正解はない議論、されど非常に重要な議論。
これ以上俺に戦えって言うのか?勝利は確実ではないっていうのに!他人の癖に、偉そうに上から言わないでくれよ。一緒に戦おうなんて言葉は、同じ病気になってから言ってくれよ!
医師は患者に『共感』することが重要で、患者と共に病気と向き合うのが基本である。
「患者と共に戦う」ことの難しさ・・・
病気になると誰でも孤独になる。風邪でも高熱を出し、寝込んでしまうだけでも。
自分が今、突然命に期限があると宣告されたならば、その孤独は計り知れないものになるだろう。病気の痛み・苦しみは本人しか分からないのだから。
それでも、医師は患者と向き合わなければならない。
戦うとは、「治療を行う」ということだが、それが諸刃の剣での戦いだったらどうだろうか。手術をすると治る可能性があるかもしれないが、手術によって寿命が縮まる可能性があるという戦いだったらどうだろうか。
戦う(治療する)ことの決断をするとき、患者からこの一言が出るのならば、『共感』という状態からはまだまだほど遠いのではないだろうか。
何パーセントは治り、何パーセントは死ぬ、そうやって統計で考えて処理する。だがな、その1パーセント1パーセントは、俺たち1人1人の命なんだよ!
医師は数字で検査や治療の方針を検討することが多い。また、数字が何より患者には伝わるのではないかと考えている医師も少なくはない。
でも、それは本当に正しいのだろうか。
患者の気持ちというのは皆、この患者の台詞に集約されているのではないだろうか。
99%失敗しませんと言われ、失敗した際に、「あなたは運が悪かったですね」で済まされるほど命は軽くない。
数字で説明することが重要ではなく、患者の気持ちをくみ取りつつ分かりやすい言葉で伝えることが重要なのだと思う。
命について真剣に考えたこともないのに、死にたくないと病院に来て、医者にその命を委ねるのですか
医師が患者へ向けた言葉。
死にたくないのでできることは何でもやってください、先生の考えるがままにやってください。という言葉。
でも、本当はそれでいいのだろうか?
治療によって苦しい思いをしても、その苦しみも医者にお任せできますか?
私自身、よく「先生にお任せします」と言われる。任せていただいて構わないのであるが、治療がシンプルで医の危険を伴わない疾患であれば何の疑問も湧かないが、不治の病だったらどうだろうか。我々医師が不治の病の患者と向き合う場合、一番重要視するのは「残された時間」である。時間の流れも1人1人違うので正解は医師にあるのではなく、患者の中にあることは少なくない。
だからこそ、命について考える時間が必要なのである。
幸せは不幸の隣り合わせ、不幸がなければ幸せはない
死がなければ生という概念も存在しない
患者に選択肢を『与える』だなんて、医者の傲慢が過ぎるよ。僕らが向き合うのは、患者さん1人1人であるべきなんだ。福原、君は病気とばかり向き合っている。
医療者が読んでも、一般の人が読んでも分かりやすい一文
だけどしばしば医療者が間違ってしまうこと。
医師は病気ではなくひとを診る。
基本だけど忘れてはいけない一言
死を敗北にしてはならない。死を敗北にしてしまったらそこに向かう人があまりに報われないではないか。
人はみな死ぬ、死が敗北ならば、みな敗北して死んでゆく。
死は不幸なものだが、「幸せな死」というものがあってもいいと思う。
死が日常の仕事をしていると、死亡宣告後、周りの家族に涙と共に温かいほほえみがみられることがある。
幸せな最後を過ごしてあげること、これも非常に重要な医療である。
死は必ずしも敗北ではない。